
生真面目漫筆#1 [[/img/R_contents_matsuki.gif
投稿日時 2005-4-30 22:53:09 | トピック: 生真面目漫筆
| 第一話「わたしとこけし」
今年は昭和80年になる。昭和30年生まれの私は50歳ということになり、男50というのは、かなり大人なはずなのだが、私はいったい何をやっているのか、仕事部屋では高校生の時のように音楽を聴き本を読みコーヒーを飲んでこけしを見ていることが多い。 もちろん仕事はする。こうして文を書いたり、絵コンテを描いたり、企画書を書いたり、見積もりなんかは凄く一生懸命に書く。 スタッフは4人いて、20代がひとり、30代が3人、我々は食を中心とした仕事をしている。スタッフルームと私の部屋は同じ階だが、別になっており、私はひとりである。 20代のスタッフは昨年、おかたい会社をやめてうちに来た。うちに来てから、友人に私の書いた本を何冊か読ませたらしいのだが(私が30代に書いたコラムをまとめたもの)あまりにもクダラナク面白かったらしく、「お前のところの社長、本当に大丈夫か?」とマジで言われたらしい。私は大丈夫である。
ただ、私はこけしを集めている。こけし、こけし、こけし、あー、こけし。あなたは何と時代の片隅においやられてしまったのだろうか。「私はこけしを集めている」というと、誰しもが、その後の話を聞いてくれようとしない。 聞き流すか、話題を変えたがる。私は凄く話したい。みんなにこけしの話を沢山してみたいのである。だから、今回からこけしについて、いろんなことを書きます。 それでは、総金歯だった祖母の話から。いまは亡き祖母の集めたこけし500体ほど私が受け継いだ。 総金歯については30代の頃にも書いたがジェームス・ブラウンのゲロンパなんかが流行っている頃、私は祖母に「ラランジェというディスコに行くから」と言って小遣いをもらいブレザーを着てペーズリー柄のネクタイをして出かけて行った。高校1年の秋の頃である。宮城県仙台市、秋は凄くいい。夏の仙台七夕が終わると秋風がやってくる。その頃はIVYファッションがカッキイーイのであった。 コンポラの好きなリーゼントの髪型をした1級上の先輩が「直也ラランジェへいくべ」と言うので行ったのである。初めて行ったディスコは暗かった。フィリッピンバンドがムーディーでミラーボールがくるくるまわっていた。私は町中で育ち、家からも近いビルにラランジェはあった。踊り方など分からず、雰囲気に飲まれていると、「直也!」と先輩が言い、入り口を指差す。
なぜか、割烹着を着た総金歯の祖母がこちらを見て笑っている。その笑い顔が凄いことになっていた。ミラーボールが金歯に反射して、いや金歯がミラーボールから反射した光りを受けて派手に輝いているのであった。隣リには母がいた。その隣リには空手の強いおじさんもいた。 どういうことかというと、その頃ディスコは不良の行くところで、祖母はそうとも知らずお小遣いを渡してしまい、それを母が知り、母はこころ細いので、空手の強いおじを連れて私を向かえに来たわけである。カッキワルーイ。私は帰った。祖母は大人ぶっている私がおかしかったのか、笑い、それをミラーボールがキャッチしてしまったということになる。 小さい頃、祖母が私の顔の近くで笑うと金歯って恐いなとも思っていた。髪型はおだんご、手書きの眉は時々ずれていた。おでん屋をやっていて、そこのおかみさんで、母と母の妹が手伝っていた。店にはこけしの棚があり、祖母は時々母と妹を連れ立ち宮城県の遠刈田や鳴子から秋田あたりまでこけしの旅をしていたのであった。 それは、こけしイコール温泉地めぐりの旅であった。昭和30〜50年代のことである。私は一度も同行したことがない。多分うるさかったからであろう。 また、子供の頃、祖母から誕生日にこけしをもらったことがあるが、御冗談でしょうと思った。18歳で上京したときは荷物の箱のなかにこけしが入っていた。成人式にはカラーテレビを買ってもらったが、全国大会でなんとか大臣賞をとったこけしもついていた。 あまり興味はなかったが祖母が亡くなって、全部私がもらうことになった。そのなかで、1体だけ気に入ったのがあって仕事場の机の上に置いておいた。 それは秋田の木地山の小椋久太郎作のもので、見なれたものになってしまった。これがきっかけで久太郎を集めるようになってしまうのである。顔がいいのだが、何でいいのかはよくわからない。
ただ、こけしって凄い存在感があるなと思うのです。例えば、洒落たカフェやバーにこけしが1体飾ってあるだけで雰囲気が変わってしまう。「わたしを見て」と、こけしが言うのである。 日本を代表する民芸品、それがこけし。今日もまたコーヒーを飲みながらじっくり見てしまった。BGMはテレサ・テンのベストでした。それでは、また。
2005April/Naoya#1
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